843. ハウルと目が合って妊娠しました

ハウルが格好いい」「ソフィーの眉毛太すぎ」「カルシファーでグッズ展開を狙いすぎ」「マルクルの声に神木隆之介その層を狙いすぎ」「ハウルと目が合うと妊娠する」「全米が想像妊娠した」と名高いあの映画、今更ながら見てきました。さすがゴールデンウィーク効果です。

ホント今更なんで、ほとんどの人には興味が失せた話題だと思いますけど、一応ネタバレ言及入るんで注意して下さいませ。


深い話はとりあえず後回しに。まずはミーハーな部分。

ハウルのキムタク声」について
風刺されたほどひどいものではなく、なかなかマッチング。しかし、慌てたり感情をむき出しにする場面などでは、声が上擦ったり役者の地が出ており、”なりきれなさ”を感じました。そうした場面に限定すれば、不合格と言わざる得ないのも確か。世間様の評価は、そうした点に目が行きがちだったのかな? オレは声優がどうとか素人なんで、アレで十分だと感じました。


ジブリらしくない」という声について
そう言われる原因には多数要因がありますが、最たる理由は最後まで主題がぶれたままだから、だと思いました。つまりこの映画は「ソフィーの呪いが解けたらハッピーエンド」なのか、「ハウルとソフィーの恋愛が成就したらハッピーエンド」なのか、はたまた「荒地の魔女を倒したら」「ハウルカルシファーの契約を見破ったら」「多国間の戦争を解決したら」「サリマンの鼻を明かしたら」「ハウルが悪魔に心を奪われなければ」ハッピーで終了なのかと、ハッピーエンドの定義が最後まで確定されないのです。

他のジブリ作品といえば、終着点が明示的・暗示的にしろ作中で読み取れたし、うまくハッピーまで着地したように思います。ハウルの場合、それまでに出た様々な目的・問題を最後で一気に解決してハッピーエンドに運びました。話が終わっても「まだ続きがあるんじゃ?」とあっけにとられた人は多いだろうし、ある面では良作だけどある面は不満の残る複雑な感想を持った人も大勢いるでしょう。これ、主題が軸ズレを起こしすぎたんですよね。

オレの場合は「時間の都合で中身を一部省略した打ち切り漫画みたいで、なんだかご都合主義だ」って気分になりました。


「大風呂敷広げすぎで片付け切れてない」という声について
先に述べたように、「ハウルの動く城」は物語の終着地点が話の進行と共に絶えず変化ます。同時に、ストーリー進行の過程で、それまでの目的が薄まってゆきます。「ハウルの心臓喰いを世間が恐れている」話、「荒地の魔女を憎むソフィーや怯えるハウル」話などは、暫く話が進むと完全消滅しました。テンポの良い作風を目指した結果、真に必要なモノだけ残し、時間のかかる場面・描写は極力省いたのでしょうかねえ…。ここに「原作がそうなってる」を持ち出すのは野暮だと思います。ジブリはそうした原作を意図して選んだのだから、あやふやになるエピソードには独自のアレンジを加えても良かったはずです。


世界観について
ジブリの色合いで織りなす壮大な魔法の世界観は、誰もが深く酔いしれることでしょう。作中では多く言及されませんが、多くの国家や街が登場して、それぞれには独自に形成した文化が見られます。

また、「魔法」に関する設定の作り込みも奥深さを感じ取れます。魔力を求めすぎると術者が魔獣化する、「目や心臓」で契約すると特別な力が得られる、呪いのルール、魔法の兵器化などの設定も、昨今のライトファンタジーとは異なりひとクセあり。しかし、それらは初めて見る真新しい設定ではないんですよね。逆にクラシックな香りに満ち溢れていて、その古めかしさがハウルの世界観とピッタンコだったんだと思います。


ここからの話はちょっとディープにテーマ別言及。


ソフィーの呪いに潜むテーマ
ソフィーの呪いは場面によって解けます。それがどうしてか、どういう事か、作中で理由を明かされることはありません。それが難解さを呼び「ハウルは子供には難しい」と言われるそうで。オレはむしろ逆に思います。大人はあれこれ理由を求めるから難しくしてるのだけど、子供の方がよっぽどすんなり、直感で受け入れるのではないでしょうか。ハウルを庇ったり、ハウルに恋したり、ハウルの好意に嬉しがったり、つまりソフィーの感情がすごく前向きに走ったとき、ソフィーは若返りを見せます。呪いが解ける原理はどうあれ、直感で導き出される印象が、そのままひねくれもなく答えなんだと思います。

ところでオレは大人ですから、その立場で少し難しく考えます。

ソフィーの性格は作中より「自分がダメだ、醜い」と自己価値を落として考える子であることが読み取れます。これが呪いのベースとなり、そう意識するうちは呪いが解けません。また、呪いが解けるタイミングは「眠っているとき」や「感情が前向きに高ぶったとき」で、どのケースも本人は若返りの事実に気付きません。呪いを解くには「自己価値を落とすような連想を意識しない」「自己価値を上げる連想を意識する」ことが必要だったんでしょう。

一つ、ソフィーのセリフで心に残ったものがあります。それは「年寄りなら失うモノは何もない」と物言い威張るもの。ソフィーの呪いは、ハウルの城を訪れた時に、あるいは解けかけていたのではないでしょうか(その晩ソフィーは寝室で若返りを果たしていたので)。しかし彼女は「周囲の人よりグズでダメな自分は、若ければ多くを失うことになる」ことに怯えたのではないか、という結論を考えました。


ハウルの城が示すもの
ハウルの城は最初、荒地の魔女やサリマン、ハウルを狙う魔法使い達を恐れるあまり、『兵器』のような形相を持っています。しかしソフィーが訪れ、人間化した荒地の魔女やヒンを迎え、兵器のような城の中で『家族』と『平和』を形成するうち、ハウルの城から兵器が消え始めます。クライマックスにはとうとう、兵器のすべてが取り払われ、住処だけが残る。ここに、城の形状が暗示しているメッセージ性をひしひしと感じました。

世界が「戦争」に染まりゆく事と相対して、ハウルの城は兵器を剥ぎ「平和」な住処へ変わる。ハウルの城が「平和な住処」へ変わった理由は明白。ソフィーが家族を作ったからです。戦争とはハウルが言ったように、敵味方関係なく「どちらも人殺し」です。逆に、家族とはソフィーが言ったように、血は繋がらなくとも「協力して助け合って生きる」ことです。

この対比表現はとても皮肉が効いてますよ。「ハウルの動く城」は反戦を訴える映画と囁かれますが、単なる反戦アピールに終わる物語ではありません。オレはこの作品から、「世から戦争を消し去るにはどんな考えを持てばいいか。それには『家族』の意識が必要だ」という一連のメッセージを受け止めました。


戦争は世界観の一部だった
ハウルやソフィーは「戦争」に対し、あまりにも無力に描かれます。国家が頼りにするハウルの存在さえ、戦争描写の中では一人の兵隊扱い。ここも、主人公・ヒロインが争いを解決する英雄モノのジブリ映画とは違うところですね。事実、戦争はソフィーやハウルの働きかけではどうにもならず、国家の長同志が動くことで解決されました(…多分)。

つまりハウルとソフィーの紡いだ「ハウルの動く城」というお話の中では、あの戦争も「世界観の一部」だったと考えるべきなんでしょう。普通ファンタジーで戦争や争いが起これば、主人公達が解決するのが常ですが、この作品はその否定形であると言えます。この映画に否定的な意見を出す方の多くは(推測ですが)、ハウル達の活躍で戦争解決を期待し、その期待を裏切られて「あれれ?」と首を捻ったのかもしれませんね。


やたら長い言及文になりましたが、このくらい書けば1800円の元は取れたと思います。どうせ暫くすれば確実にTVで見られるので、(ジブリファンでもないし)映画館で見る気はなかったんだけど…。あまり期待せずに見た分だけ、面白いと思えました。